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イエス・キリスト Jesus Christ (ジーザス・クライスト)

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キリスト教の開祖。始祖。生没紀元前4?,7?年頃-30年頃?(西暦0年はキリスト生誕年紀元のはずだが、 実際には差があるというのが定説らしい)。 あるいは実在の人物[ひとり]では無いという説もある。
英語ではジーザスJesus クライストChrist(Jesus H.Christ)。名前の意味は、 「ヤーウェ(神)は救いである」の意味のヘブライ語人名イェホーシューア(短縮形ヨシュア)が ギリシャ語形になった 「イエスース(イエースース)」が「イエス(イエズス)」、 ヘブライ語で「油を注がれた者」の意味の「マーシュィーアッハ」(メシア,メサイヤ)にあたる ギリシャ語「クリストスkhristos」が「キリスト」。
元来はイスラエルの王、当時待望された「救済者(救世主)」の称号。
イエスの「尊称」だったが、布教後のユダヤ以外の民族にとってはイエスのことを指す固有名詞に なってしまったようだ。

新約聖書(バイブル)などによれば、パレスチナ、ガリラヤのナザレの大工ヨセフと妻マリアの子 として生まれた(古い伝承では「ナザレのイエス」とある[マルコ伝福音書10章47ほか])。 イエスは処女マリアから生まれたという(処女懐胎 イエスの聖性の根拠 [マタイ,ルカ福音書])。
ベツレヘム(ベスレヘム)を出生地とするマタイ伝福音書(2章1-)、ルカ伝福音書(2章1-)もある。 「メシアはベスレヘムから現れる」という、ユダヤ人の「期待」(ミカ書 5章2)があったようだ。

生年については、マタイ伝福音書(2章1)では「ヘロデ大王の統治下(紀元前BC37-BC4)に生まれた」、 ルカ伝福音書(2章1)では、「アウグストゥス帝の人口調査の勅令発布の年(AD6-7年)」とある。 (この人口調査の勅令は紀元前7年発布と推測する学者もいる)
兄弟姉妹もいた(マルコ伝福音書6章3)。

12歳のときエルサレムの神殿で教師たちと問答をし、その賢さに人々が驚嘆したという(ルカ伝福音書2章41-)。
30歳ごろ(AD28年ごろ)、ヨルダン川のほとりでヨハネの洗礼運動が始まり、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、 ガリラヤで神の国の近いことを訴え、ペテロなど12人の弟子たちを集めて宣教活動を開始した。 活動のおもな地域はガリラヤ。

イエスは民衆の中で教え、病人を癒し、悪霊祓いを行った。しかし ユダヤ教の伝統的教えに対して自由にふるまったため、律法学者やパリサイ人などユダヤ教指導者の 反感を買った。
ユダヤ教のラビ伝承に「イエスは魔術を行い、イスラエルを惑わし、背教させたので過越祭の前日に処刑された」 (タルムード:サンヘドリン:43a)とある。

イエスの生涯の最終章は、過越祭(すぎこしのまつり)を祝うためエルサレムに行き(日曜日)、 そこでユダヤ教指導者たちと論争、弟子たちを教える。 十二弟子と過越の食事(最後の晩餐 同週木曜日)をする。
ところが12弟子の一人であるイスカリオテのユダに裏切られ、ユダヤの サンヘドリン(最高法院)によって逮捕、審問。涜神(とくしん)の罪で死刑の判決を受けた。
当時のユダヤ人は死刑執行権をもたなかった(ヨハネ伝福音書18章31)ので、イエスをローマの 総督ポンティウス・ピラトゥスに「反ローマ運動の指導者」として訴え、死刑を強く要求した。

福音書では、ピラトゥスはイエスにその罪をみいだすことができなかったが、ユダヤ人の声に負け、彼を 「ユダヤ人の王」すなわち反ローマ的メシア僭称者とした。エルサレム郊外のゴルゴタの丘で十字架刑に 処せられた。

イエスの教えに集まる民衆の中には民族的メシア王国の実現を期待する者もいたので、当時当地のユダヤの 権威者やローマの統治者にとって、イエスはおもしろからざる人物ではあっただろう。
イエスはユダヤ人たちが待望していた「神の国」の接近を告知し、その実現を祈るべきことを教え、 さらに神の国は単に接近しているだけではなく、すでに現在の事実となっている、といっていた。しかし ユダヤ人だけの救いを説くわけでなく、ユダヤの律法に反する行動・主張もした(離婚の禁止等  当時社会的弱者の女性を保護する意味で)。
ユダヤの律法に対する批判的言動はユダヤ教からみれば 涜神(とくしん)行為で、許されるものではなかった。
なお、もっと後に成立したイスラームにおいては、イエスは預言者(神の言葉を伝える者)のひとりとされている。

処刑の日は金曜日だったという。マタイ,マルコ,ルカ福音書では「過越祭の日」(ユダヤ暦のニサン月15日)、 ヨハネ伝福音書ではその前日(AD30年4月7日)となっている。 ヨハネ伝福音書では三度の過越祭を数えられるので、イエスの活動期間を推定すると2年余りとなるらしい。
ローマの歴史家タキトゥス(生没AD55-120年頃)は、『年代記』15章44で、総督ポンティウス・ ピラトゥスのもとでのキリストの処刑を記している。

イエスは処刑、死後3日目に復活したという。
イエスが逮捕されるや、彼を見捨てて逃げ去ってしまった弟子たちは、イエスが復活したとの確信し、 彼を神の子メシアと信じ、その死は旧約聖書に書かれた「神の救済計画に基づく贖罪の死」と考えるようになり 、キリスト教が始まったようだ。

「キリストが、聖書[旧約聖書]に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして 葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、3日目に甦ったこと、ケパ[ペテロ]に現れ、次に、12人に現れたこと」 (第一コリント書15章3-5)が復活についての最古の伝承だという。

この後に成立した福音書の復活物語がより復活を詳細に伝える。 イエスの墓が空虚であったという。 イエスが顕現したという場所は、ガリラヤ(マルコ伝福音書)、エルサレム、その近郊(ルカ伝福音書)、 その両方(マタイ、ヨハネ伝福音書)、と書かれる。

弟子たちは、「神が死人のなかからイエスを甦らせ」(ローマ書10章9)、「天に引き上げ、万物の主とした」 (ピリピ書2章9-11)と信じ、 「われらの主よ、きたりませ」(第一コリント書16章22)と祈りつつ、終末のとき(最後の審判)における イエスの再臨を待ち望むようになった。

イエス・キリストの姿については、短い巻毛の頭髪で髭の ない青年像と、黒く長い髪と同じく黒く豊かな髭を蓄えた荘厳なキリスト像とがある。6世紀頃までは キリスト教世界全域でこの 二つがとられていたが、中世ビザンチン以降荘厳なものが多くなったという。
イザヤ書53章では救世主の容姿は貧弱であると記されており、テルトリアヌス、オリゲヌスら初代教会 の神学者たちも、 イエスも当然そうであったに違いないと記している。 またアウグスティヌス(生没354-430)が、「イエス・キリストの容貌がどうであったか、われわれは まったく知らない」と記している。 しかし西洋絵画、イコンなどは当時の姿が伝えられたものと考えていたという。

また「真の肖像」アケイロポイエトス(人の手によって写されたものではない) のキリストの容姿に三つある。
・聖骸布(せいがいふ) キリストが押し当てた布にキリストの顔が写ったというもの
 (エデッサのアブガルス王伝説中のものと、聖女ベロニカのもの)
・北イタリアのトリノの聖布 死んだキリストの身体を包んだ布に全身像が写ったとというもの(現存)
・使徒ルカが描いたとされる肖像

参考資料
・日本大百科全書 (執筆者:川島貞雄,名取四郎 小学館)
--イエス伝研究史 (A・シュヴァイツァー著 白水社)
--イエス (M・ディベリウス著 新教出版社)
--現代のイエス伝 (A・M・ハンター著 新教出版社)
・大辞泉 (JapanKnowledge)
・ランダムハウス英和大辞典 (ジャパンナレッジ)
・放送大学()

 
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