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ワリヤーグ ヴァリャーグ バリャーグ Варяг >>関連項目一覧


ヴァリャーギ、ヴァランジアンなどとも。ロシアの歴史、伝説において、スカンジナビア、 またはスウェーデンのヴァイキング。ノルマン人をさす。
またビザンツ帝国のノルマン人傭兵(ヴァイキングは傭兵もした)。英語表記はVaryags。

また彼らのことをルーシRus、ルース人ともいう。 辞書では「1.バリャーグ人。古代ロシアで、スカンジナビアのノルマン人をさす。 2.(おどけて)外部から招かれた応援者。外人部隊。」とある。

8-11世紀のヴァイキング時代に、 バルト海東部でおもにスウェーデン人が往来。 内陸地方にバイキング流儀の交易をしていた。
フィン人が彼らを「Ruotsi 船を漕ぐ人」と呼んだという。
Rusがキエフのリューリク王朝の起源という伝説がある。
(キエフはキエフ・ロシア時代の首都といえる。現代ではウクライナの首都)


これはヴァイキングの、ノルマン人の東方交易、ヴァイキング移動の東方経路、東方進出といわれるもの。 東方経路をとったノルマン人(スウェーデン人)の名称。 西方経路より、通商・交易に大きな関心 があったようで比較すると人数は少なかった。
ビザンツ商人、イスラム商人が目的。
武力で略奪征服が重点ではなかったようだが 交易路の確保拠点がノヴゴロド、スモレンスク、キエフとなった。
もともとのスラヴ人は森林地帯を部族規模の共同体で農耕社会を形成 していて大都市はつくらなかったようだ。
アラブ人の著述家イブン・ルスタハの記述では、 10世紀の半ばのルース人について 「彼らはもっぱらスラヴ諸国と交易して生活している」とある。

「バリャーグからギリシャへの道」といわれるものがある。
フィンランド湾からネバ川などを経てドニエプル川に入り黒海へ その西岸をつたいコンスタンティノープルへ至る交易路。
もうひとつ、リガ湾 西ドビナ川 ドニエプルからコンスタンティノポリスへ至るルートも重要なものだった。
(途中からボルガ川、カスピ海、バグダードへ至る交易路もあった)

以下、ギリシャ正教会修道僧が編纂した「ロシア原初年代記(過ぎし歳月の物語)」等の記録から

839年 スウェーデン人、アゾフ海に到着
862年 スラヴ人はワリャーグ人を追い払ったが、互いのもめ事が絶えなく、
ワリャーグ人ルーシ族に対して 「我らの国は豊かで広大だが、無秩序が悩みの種である。 統治にきたりて我らを支配せよ」と申し出たという。
これはロシアの故事成句となった。
リューリック、シネウス、トルーボルの三兄弟が来て長兄リューリックはノヴゴロド、 次兄シネウスはベロオーゼロ、末弟トルーボルはイズボールスクに居を構え統治した。

864年 リューリック(ルーリック)、はじめての公クニャージ(king)となった。
(二人の兄弟が死んだため)。
ノヴゴロド以北を統一し、ノヴゴロドはルーシの地と呼ばれる。
権力の座につき、支配をジョジョに広げ、 腹心の首長2人を960km離れたキエフまで川伝いに派遣した。
キエフが南下の要衝で、当時ヨーロッパで最も繁栄した都市のひとつだった。
リューリクの部下アスコリドとジルは南下をつづけ、コンスタン襲ったという。

ロシアの歴史家には「ルーシ=ノルマン説」を否定するものもある。 当時のキエフ朝の正当化する伝説なのかもしれないが、ノルマン人が大きく関わったことは事実なのだろう。

864年 スウェーデン人、カスピ海に到着
アスコルドとジール コンスタンティノープルを攻撃。
「ラジビウ家の年代記」に ルース人によるコンスタンティノープル襲撃が書かれている。

879年リューリク没
リューリクの息子イーゴリと後見人オレーグが アスコリドとジルからキエフ奪う(オレーグはルーリックの兄弟)。 イーゴリが幼少だったので オレーグがキエフ公になった(ドニエプル川を利用してキエフ入り)。
東スラヴ諸部族とハザール国(イスラム教)などとの戦いがあった。

882年 オレーグ賢王(879ー912)がノヴゴロドとキエフを統一
黒海に至る川を駆け巡る軍船造る。

907年 オレーグが2000隻、8万人のヴァイキングで コンスタンティノープルを攻める。
行く手を塞ぐ巨大な鎖に 船を岸に引き上げて 車輪をつけ 風を帆にはらませ町に突進したという。
ビザンチンは交易協定を呑み莫大な税をオレーグに払った。

941年 イーゴリ コンスタンティノープル襲撃するも敗戦
イーゴリは服属させてた東スラヴのドレブリャーネ族の反抗で殺され しばらく王妃のオリガが統治する。コンスタンティノープル (オリガはキエフでキリスト教にふれ、コンスタンティノープルで皇帝から洗礼うけてる)コンスタンティノープル
オレーグは「ヘルギ」イーゴリは「イングヴァル」とノルマン起源の名前だが、 次の代のスヴャトスラフはスラヴ名になり、バリャーグのスラヴ化が伺える。

964年 オレーグの孫スヴァトスラフ(スヴャトスラフ)がキエフ公に
勇名をはせた武将で、四方に「汝らの許にまいりたし」という文句を送り遠征した。
この語は議論なので反対する時「お前らのところへ行く Иду на вы」 といったり成句になっている。

971年 ドナウ河畔の町ドロストルでついにビザンチン軍と対峙
その時10万対1万という寡兵に、 「ルーシの地を辱めまじ」という名文句をうみ、 「骨となってここ横たわる、死者は恥辱をもたない。 逃げるのは恥だ 強固に戦おう もし我の首がおちたなら その時自らおのれの ことにおもいをいたせ」と言った。
兵も「君の首のおちたるところに我らもおのれの首をおとさん」と答え、
決死の覚悟の戦いにビザンツ側は退却、講和条約をむすぶ。皇帝ヨハネス・チミスケスは 大量の貢ぎ物を払った。
しかし、その後スヴャトスラフは、ビザンツのそそのかしでブルガリアを攻め、居座ったたためビザンツに攻撃され退却の途中、 ペチェネグ族に殺された。

988年 スヴャトスラフの息子ウラジーミル大公(在位980-1015)が改宗
「ルーシ人には飲む楽しみがあり、それなしでは生きていけぬ」といった。
各国から布教があったという話があり、
カトリックには代々断ってると言い、
ユダヤには、流浪の民になってると言い、
ハザール国(イスラム教)には「来世で70人の妻が」といわれたが 無類の女好きのウラジミールは7人の妻800人の愛人がいるのでだめだった。
ビザンチンのギリシア人哲学者の言葉にはウラジミールは耳をかした。

キリスト教国となったキエフ・ロシアにビザンチンから司教も来た。 急速にとけこんでいった。

東ルートの産物が少なくなり、中近東の銀山がアジア系民族(モンゴル系か)
の手にわたるとルースとスウェーデンの間はわずかな交易路を残す程度になった。

1040年 イングヴァールが30隻の船で中央アジアのイスラム国家をめざす
スウェーデンを出発、翌年シリアで没した。

このあたりでヴァイキング時代は終わりをみせた

1200年頃にはじまったモンゴル=タタール軍の侵入
チンギスの孫バトゥのキプチャク汗の支配をのがれた ノヴゴロド公国は、 ローマ・カトリックのスウェーデン人、ドイツ騎士団の進軍をうける。
ノヴゴロドの民会は、青年アレクサンドル公に託す。

1240年7月 アレクサンドル、ネワ河畔でスウェーデン軍に勝利。「ネフスキィ」と呼ばれる。アレクサンドル

ビザンツ帝国傭兵のヴァリャーグについては後日追記。

ロシアやウクライナの艦船などには「ヴァリャーグ(ワリヤーグ)」と命名される艦船がみられる。日露戦争で鹵獲した 艦船ワリヤーグが その後の協定で、ロシアに譲渡(返還?)されるといったこともあった。
2011年8月、中国がウクライナから買った空母「ワリヤーグ」が大連港に停泊。中国初の原子力空母に改装される、 「遼寧―旅順号」と命名される、と報じられた。最新鋭の電磁気式カタパルトが搭載されるともいう。

余談だがFF11には「ヴァリャーグヘルム」という防具がある。ちなみにヴァイキングの兜に本当は角はない(ようだ)。

参考文献
ヴィジュアル版 ビザンツとロシア・東欧 (森安 達也:著 講談社)
ロシアの言語と文化 (戸部又方:著 ナウカ)
ヴァイキング―海の王とその神話 (イヴ コア著 創元社)
ロシア語辞典 (博友社)
東欧を知る事典 (平凡社)
ヴァリャーギ ビザンツの北欧人親衛隊 (国際語学社)


 
関連項目一覧
ロシア 【文化地域項目】
北欧,ゲルマン 【文化地域項目】
ヴァイキング(バイキング) 【北欧,ゲルマン:海賊】

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