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イッキュウ 一休さん[宗純] いっきゅう >>関連項目一覧日本の歴史伝承上の仏教僧(禅僧)。後世にできた頓智咄(とんちばなし)「一休咄」「一休頓智談」が有名。アニメにもなった。 一休宗純(いっきゅう そうじゅん)、生没1394-1481年(応永1-文明13年)。室町中期の臨済宗の僧。京都の人。後小松天皇の落胤(らくいん)とも。 宗純は諱(いみな)で、宗順とも。師事した謙翁宗為(けんのうそうい)に与えられた。 一休の号は、師の華叟宗曇(かそうそうどん)に授かった。 煩悩と悟りのはざまに「ひとやすみ」する意味だという。 (一休とは一時やすむこと。しばらく休息すること。ひとやすみ。ひとやすみ) ほかの号に狂雲子(きょううんし)、夢閨(むけい)、瞎驢(かつろ)。 詩・狂歌・書画をよくし、著作に詩偈集「狂雲集」、ほか「自戒集」「一休法語」「仏鬼軍」など。 奇行の持ち主として知られ、その俗伝が頓智咄(とんちばなし)として 後世できた。師事した大徳寺の住持となり、禅宗の革新に尽力したという。 6歳で臨済五山派の京都安国寺の像外集鑑についた。侍童になり周建(しゅうけん)とよばれ、才気鋭く15歳で詩才は評判に。 しかし権勢におもねる五山派をはなれ在野の立場 の林下の禅を求め、 17歳のとき西金寺(さいこんじ)の謙翁宗為に参学、 そして大徳寺の高僧、近江(滋賀県)堅田に隠栖していた華叟宗曇の弟子となって修行。師の没後は定住することなく各地を雲遊。 1467年(応仁1)、応仁の乱が起こると戦火を避けて山城薪(やましろたきぎ 現京都府京田辺市)の酬恩庵(しゅうおんあん)に 寓した。応仁の乱が鎮まった1474年(文明6)、勅命によって大徳寺の第47代住持となった。 荒廃した伽藍の再興に尽くし文明13年11月21日、酬恩庵で示寂。 大徳寺真珠庵と酬恩庵に墓があり、自刻の等身木像が安置されている。 一休は、当時幕府の御用哲学と化していた五山派の禅からはなれ、 日本禅の正統を自任し、独自の漢詩文で禅の本質を芸術性をもって歌い上げたようだ。 酬恩庵には連歌師宗長、宗鑑、水墨画の曾我蛇足、猿楽の金春禅、音阿弥、わび茶の村田珠光らが参禅し東山文化の形成に大きな影響を与えた。 また大徳寺開山、大燈国師[大灯国師](宗峰妙超)の法流をさかのぼり(宗為、宗曇もこの禅をついでいた)、虚堂智愚(きどうちぐ 中国の南宋禅林 に孤高の宗風を振るった)に私淑、自らその再来と称した。 大灯の禅門は権勢に近づかず、清貧と孤高の中で厳しく座禅工夫するものだった。のちに五山派だけでなく大徳寺派でも名利・安逸を求める生き方を攻撃。 堺の町では常にぼろ布をまとい、腰に大きな木刀を差し、尺八を吹いて歩いた。木刀には、外見は真剣のような偽物の坊主ばかりで真の禅家が少ないという 警鐘である。 「狂雲子」とも号し、形式や規律を否定して自由奔放な言動や奇行をなした。 壮年以後は飲酒や女犯をおこない、晩年には70歳をこえても森侍者(しんじしゃ)という盲目の美女を愛して、その愛情を赤裸々に詩文に詠んだ。 そ 反骨、洒落で陽気、庶民的な一休の禅は江戸時代に虚像実象をおりまぜ、とんちに富みと庶民の味方という一休像を生み、トンチ話のモチーフとなった。 世界にはこのようなトリックスター的、知恵者による痛快な笑い話が多くみられる。その一種といえるだろうか。 「一休咄」は江戸前期の咄本で四巻四冊。作者未詳。1668年(寛文8)刊。一休宗純和尚を主人公とした狂歌咄集で 当時流布していた一休俗伝中の奇行を集めて好評を博した。以後一休を主人公とする咄本が多く出た。1700年(元禄13)には五冊本がでた。ほか 「一休関東咄」「二休咄」「続一休咄」「一休諸国ばなし」など60余点にのぼった。問答が得意な風狂的なイメージで絶大な人気だった。 有名な奇行譚に、地蔵開眼のときに小便をかける、魚に引導をわたすなどがあった。 また「一休納豆」というものもあり、一休和尚の始めたものという。寺納豆の一種。京都、大徳寺真珠庵で作られる。 豆の粒が大きく色が黒く光沢があって、やわらかで美味だという。1684年の「雍州府志」六に「納豆<中略>大徳寺中真珠菴之所製也傚一…」とある。 参考文献 ・日本架空伝承人名事典 (平凡社) ・日本大百科全書 (執筆者:柳田聖山 小学館) -禅門の異流 (秋月龍著 日本の仏教12所収 筑摩書房 1957) -一休 (市川白弦著 日本放送出版協会 1970) ・日本国語大辞典 (ジャパンナレッジ) ・大辞泉 (JapanKnowledge) 関連項目一覧
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