イタリアの物理学者、天文学者、数学者、哲学者。生没AD1564-1642年。フィレンツェの小貴族出身。
ガリレオの天文学的発見、研究成果に関してキリスト教勢力から異端審問などをうけることとなる。
約400年後、当時の過ちを認める意味合いでか、2008年、バチカンでガリレオのためのミサが行われた。
天文学の功績は大きく「天文学の父」と呼称されるようだ。
ガリレオの墓は、フィレンツェのサンタクローチェ聖堂(コンペツァル聖フランシスコ会)にある。ちなみに、彼のむかいの墓は彫刻等で有名なミケランジェロの墓だという。
エ・プレ・シム・ウブエ(それでも地球は動く)、言ったか言わなかったか、偉人にまつわる伝承といえる。
振り子の等時性、落体の法則などを発見(斜面をつかったらしくピサの斜塔を使ったというのは伝説らしい)したが、 影響が大きかったのはオランダでの望遠鏡の発明を聞いてすぐに自作した望遠鏡での天体観測。 月の凹凸、木星の4個の衛星、太陽黒点などを発見してコペルニクスの地動説を支持し、教会から異端者として幽閉された。 しかし、この発見を機に天体に関する研究がすすむにつれ、占星術やホロスコープなどの重要性はどんどん低くなっていった。 だが、かなり気休め的、迷信的になったとはいえ現代においても完全にはなくなっていない。
またガリレオは、コペルニクスが予見していた「金星の満ち欠け」を、まだ未発達な望遠鏡で観測発見した。
当時の科学者は魔術、錬金術などと不可分の要素が強かったはずだが(ニュートンですらホロスコープ作りや錬金術を学んだ)、 ガリレオにはあまりそういった内容が聞かれない。ただ学問を学ぶ目的であったが、若いころ(1574ー1580ころか)修道院に入り(付属学校で学んだ)、修道士(身習い僧?)になっているようだ。
1581年9月ピサ大学に入学。1588年にはフィレンツェ・アカデミーに招かれて、ダンテの『神曲』の「地獄篇」を地形学的に論じたという。(地獄の位置、配置、大きさについて、講義を行った)
当時は天体の完全性がキリスト教の宗教観と密接に結びついていたようだ。
月が完全に球でない凹凸がある、木星の4個の衛星という新たな天体の発見、を1610年『星界からの報告』として刊行、
1613年には「太陽黒点論」を公刊した。太陽の黒点も「天体の完全性」という神話を信じていた人々に驚異だったようだ。
1615年ローマの異端審問所に告発され(教皇庁検邪聖省に異端を告発される)、
1616年に第一次宗教裁判の決が下った。
1616年3月5日、法皇パウルス5世に召集された禁書目録会議は「地球の自転と(太陽をめぐる)公転は虚偽」と
してコペルニクスの著述(『天体の回転』等)、その他「地球の運動を肯定する著述すべて」は罪と判決された。
名指しこそしなかったが、ガリレオとケプラーの著作も暗黙的に発禁書に含まれた。
(後に、これらの科学理論を教えることの認容が法皇ピウス7世に認可されたのは1822年)
1632年第二次裁判で「異端誓絶」を強制、宣告され、
アルチェトリに幽閉された(「それでも地球は回っている」というつぶやきが真偽は未詳だが有名)。
1638年両眼を失明、1642年病没したが葬儀も墓標も不許可だったという。
晩年の著作は口述筆記によるものである。晩年イタリアで出版できなかったの「新科学対話」をオランダで出版。
ガリレオは論文の多くをラテン語でなくイタリア語で書き、民衆・市民にも広く理解を求めるなどした。
28歳の時、バドバ大学ではユークリッド幾何学およびプトレマイオス天文学を教え、
私的な授業を行い、「簡単な軍事技術入門」「築城論」「機械学(レ・メカニケ)」などを著し、
また、かつてリッチに学んだ応用数学を研究して種々の計算尺を製作、販売するなどした。
プトレマイオス天文学は当時の教養としては間違っていなかったが、多分に占星術、ホロスコープなど魔術・占いとも関わりがあったはずである。
ガリレオはあまりそういう方面に興味はなかったようだ。
1610年ガリレイはパドバ大学を去り、トスカナ大公の第一数学者兼哲学者としてフィレンツェで著作、研究活動に専念したという。
哲学者、という部分で何をしたかは未詳。しかし天文の概念は哲学分野だったのかもしれない。
初期の科学的業績に論述「小天秤」があり、貨幣中に含まれる金・銀を定量的に決定する通貨体制上
重要な課題を、天秤と比重を利用して高い精度で解決する方法を論じた。スコラ学者と違い実用的学問、
技術的課題を実験的手法で解明しようとしているようだ。
単一機械(てこ、滑車)により複合機械を合理的に設計することを追究した講義ノート「レ・メカニケ」で、
力の作用点の軌跡とその軌跡が描かれる時間(速さ)との関係を分析、重さ・距離(てこの先が描く弧の長さ)・時間(速さ)などを
まとめて「モーメント」とよび、モーメントの不変から「力を得しない」と表現する。この考えがやがて運動物体の力学、
たとえば地上における慣性法則を明らかにした著作を1604年「加速運動について」としてあらわす。
なお 正式な結婚はしなかったが、マリナ・ガンバという女性との間に1600年に長女ビルジニア、1601年次女リビア、 1606年長男ビンチェンツォが生まれ認知した。
この時代の人間には、多かれ少なかれ当時の魔術や神学などを基礎知識や最先端知識としている部分があると思ったが
ガリレオ・ガリレイにはあまり見られないようだ。
ダヴィンチの手稿には信仰的な記述もあったがガリレイの著作も今後読んで確認したい。
これは辞典筆者の感想だが、ガリレオもダヴィンチも、かなり理論的で、実用的な学問をしていたと感じる。
参考資料
・日本大百科全書 (小学館)
・
科学と宗教との闘争 (1968年) (岩波新書)
・
日本国語大辞典
・産経ニュース(2014/03/03 [実はダメ教師だった…生誕450年のガリレオ・ガリレイ 15のトリヴィア])
・tenkyo.net ガリレオ・ガリレイの生涯(株本訓久 [岡山天文博物館])
他
関連項目一覧
キリスト教 【文化地域項目】 ヨーロッパ 【文化地域項目】 星、星座 【大項目】 プトレマイオス 【ヘレネス(ギリシャ):占星術、人物】
(C) 幻想世界神話辞典 - GENSO SEKAI Myth dictionary