幻想世界神話辞典 〜
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レオナルド・ダ・ビンチ(ダ・ヴィンチ) Leonardo da Vinci >>関連項目一覧イタリアの芸術家、科学者、哲学者、技術者。生没AD1452-1519年。 ルネサンスにおける典型的な「万能の人」(ウォーモ・ウニベルサーレ)とされている。 イタリア、トスカーナ丘陵地帯のヴィンチ村で、フィレンツェ在の公証人と農民の娘の間の庶子として生まれた。 ルネサンス期の芸術・自然科学の万能的な先覚者で、 解剖学・土木工学など広い分野にわたる膨大な数の手稿、スケッチ、素描がある。 特に絵画、建築、彫刻においてすぐれた作品を多数残し、絵画に「モナ=リザ」「最後の晩餐(ばんさん)」などがある。 キリスト教を題材にした作品も多く残している。 「東方三博士の礼拝」Adoration of the Magi(制作依頼1481年、ウフィッツイ美術館蔵、未完成作品)は 修復のためのスキャン調査すると、後年、他者に絵の具が上塗りされた部分の下のシーンなどが発見された。 以下、生涯の略歴 1452年、イタリア、トスカーナ丘陵地帯のヴィンチ村で生まれた。私生児で両親は別々に家庭を持ったため早くに家からでたようだ。 1466年、フィレンツェに移り住み、彫刻家、画家のヴェロッキアの工房に入った。ここでヴォッティチェルリ、ギルランダイオと知己になる。 ヴォッティチェルリはメディチ家御用達の画家グループの一人で、バチカンのシスティナ礼拝堂の装飾を手伝った。 1472年、画家のギルド(同業者組合)に登録。1482年ミラノ公爵スフォルツァの宮廷に入り16年滞在。 建築家ブラマンテと親交。 1484-1485年にペスト流行、都市計画に興味を持つ。 1483年、絵画「岩窟の聖母」の仕事を委嘱(いしょく)。ミラノの礼拝堂のための絵(ルーヴル美術館蔵) 1490年、パヴィア大聖堂修復の顧問技師に。 1495年、フレスコ画「最後の晩餐」制作開始。 スフォルツァ家没落のためミラノからマントヴァ、次に短期でヴェネツィア、1500年にフィレンツェへ。 その間数学、解剖学の研究。 1502年、軍事技師としてチューザレ・ボルジアに仕える。著述家、政治家のマキャヴェッリと親交。 1503年(またはこの頃)、「モナリザ」を描く(ルーヴル美術館蔵) 1506年、フランス王ルイ12世に建築家・技師として雇われる。植物、機械、水力、地質学に興味をもつ。 生徒を持ち、画家、彫刻家としても活動。 この頃「聖アンナと聖母子」を描く。 1513年、メディチ家出身のレオ10世の庇護下でローマを訪れた。61歳になっていたが、若いミケランジェロ、ラファエロと共に 世間の注目を浴びる。 バチカンで工学、建築プロジェクトを実行。絵画の依頼も受ける。 この頃「洗礼者ヨハネ」を描く。 1515年、教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチがローマを去る時、ともに離れたらしい。 晩年はフランス王フランソワ1世の招待を受け、アンボワーズ近郊のクルー城で過ごす。哲学と科学に興味をもつ。 1519年 没。 絵画作品には黄金比、黄金長方形(矩形)を用いている。「ウィトルウィウス的人体図」や「モナ・リザ」「最後の晩餐」等に使われていることが知られる。 ダ・ヴィンチはシオン修道会の歴代総長の一人でもある(1510-1519)。余談だがニュートンも名を連ねている(1691-1727)。 (シオン修道会は1090年に聖地で創会されたという。十字軍と関わっている。創会者のゴドフロワは1099年、エルサレムを確保した後、 ノートル=ダム・デュ・モン・ドゥ・シオンという大修道院の建立を命じたという。 1118年テンプル騎士団創生にも関わり、テンプル騎士団と相互協力していたがが、後に意見がわかれ1188年袂を分かった) ダ・ヴィンチ研究の中には、錬金術、特に男女融合による完全状態を生み出す錬金術の考え方に関心を抱いていたという。 多くの絵画作品で両性具有の人物を扱ったこととの関連性が推測される。 いくつかの「手稿」が現存している。日記、対話的に書かれた論文もあるようだ。多くのデッサン、素描を含む。 ミラーライティング(鏡文字 鏡に写すと読める逆さ書き)した文章もある。 「レスター手稿」と呼ばれるルーズリーフ式のものは1506-1510年、ミラノにいた時のもので、天文学理論、石、水、化石、空気 天界の光などの広範な所見が網羅されているという。(ビル・ゲイツ氏蔵) 「マドリッド手稿」はスペイン王立図書館で1960年代に発見されたもので、これには数学的研究の記述、日記が多いようだ。 研究に関して「聖アンドレアの夜,灯火も、夜も、また書いてきた紙も尽きるころ、ついに円の求積法を発見した」と書いたり、 鎌形の図形の面積についての文章で「この発明は、1504年のクリスマスの朝、贈り物として私に与えられた」 などと書かれている。 サラマンドラの項にも書いたがダ・ヴィンチは「サラマンドラが火をくらい、それで皮が再生する」と述べている。 この辞典としては、この時代自然科学や哲学研究をしていること、依頼されたものとはいえ宗教的絵画の名作を残していることで、 神学的な部分、常識としての魔術的な知識や考え方(天文学をやれば占星術などは普通の考え方のはずである)がどうだったかを調査・追記していきたい。 ※追記20090701 ダ・ヴィンチは、技術をもった職人として絵画などの作品制作をおこない、他、力学、数学的な研究、人体解剖や自然物のデッサンにおいても 自然科学的な見地でおこなっていたようだ。人間の身体を「人間機械」と呼んだり、「おお宇宙の必然性よ、汝の精妙なる力により、云々」 といった文節をいくつか書き残している。ヴァザーリの伝えるところでは「死の直前に神をもたなかった罪を悔い、洗礼を受けた」という。 ボールがはずむ運動において、大きくはずむ初めから、小さくはずみつつ静止するまでの力の合計は最初に加えた力に等しい、といった考え方など極めて合理的である。 レオナルド・ダ・ビンチ 2.資料編 参考資料 ・日本大百科全書 (小学館) ・レオナルド・ダ・ヴィンチ -手稿による自伝- (裾分一弘:著 中央公論美術出版) 他 関連項目一覧
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